国民皆保険制度創設と総合健保組合・全総協のあゆみ

大正11年4月22日
健康保険法 公布
第一次大戦後の経済不況による大量の失業者の発生や労働争議が勃発し、労使関係が悪化する中で、労働者の保護と労使関係の改善、国家産業の発展を目的に立案された。工場法・鉱業法に基づく労働者保護事業の拡大とそれまでの官業・民間共済組合事業の再編改組が図られることとなった。官業の共済組合(鉄道・専売等)は健康保険法の適用除外とし、民間共済組合(紡績業関係)は健康保険組合に移行した。
大正15年7月1日
一部施行(保険給付及び費用の負担を除く)
昭和2年1月1日
全面施行 健康保険組合制度の実質的なスタート
※対象被保険者:工場法、鉱業法に基づく15人以上の工場、事業場に使用される労働者。健保組合は、常時300人以上の事業所が対象
※補償事故:業務災害、疾病、廃疾、失職による労働力、労働機会の損失
※被保険者数 政府管掌 約100万 組合管掌 約82万(319組合)
〇健康保険事業の保険者について
「健康保険は仮病取り締まりの目的を達し、その他運用の実績を挙げるため、事業あるいは同業者あるいは労働組合あるいは地方区画を単位とする相互組織の上に立つ自治組合をして担当せしむるを可とする。これは諸先進国の立法例に於いて殆ど一致するところである。しかしながら本邦においては従来の自治組織の運用の成績に鑑み、かつ保険制度の経験の乏しき点を見て、当初より相互組合のみにてこれを運営せしむるは必ずしも万全の策に非ずと認めたるをもって、まずこれを官営とし、ただ工場、鉱山に於いては相互共済組合経営の経験を有するもの相当あるをもって、相互の条件を下に官営保険と併行して事業またはその連合を単位とする保険組合の任意設立を認め之を法人と為し、相当大規模の工場、鉱山にして確実に保険を運用し得べしと認むるものに対しては組合の強制設立を命じ得ることとした。自治的に全部運営される日が一日も速やかに来ることを望む。」
(大正11年12月16日 農商務省四条工務局長 健康保険法案要綱説明)
「理想としては、自治的な相互組合を奨励すること及び事業本位の組合を原則とし、これに漏れるものを政府が行うつもりである。」
(大正11年12月19日 法案要綱説明質疑 労働保険調査会膳幹事)
「将来は自治組合だけで本保険を発達させるつもりで審議を願うこと。その理由は自治組合の発達は、事業主に対する職工の感情を和らげ労使協調の目的にかなうだけでなく、政府直営の場合に発生されやすい詐病、不正等を防ぐうえで極めて有効であると考えられるからである。」
(大正11年1月7日 労働保険調査会武藤委員意見書)
〇健保法施行時のいわゆる「総合健康保険組合」の認可方針について
「被保険者を使用する二以上の事業主は共同して健康保険組合を設立することを得(旧健康保険法第28条第2項)とあるが、事業の種類を異にするときは必然傷病率等も相異し、保険料負担に不均衡を免れぬから、かかる組合は認可せざること」
「一または二以上の事業において、その事業場が相互に遠隔して存在する場合の如きは組合会の開催その他において事務費を多額に要し、却って政府直轄の保険に加入せる方便宜であるから、かかる場合にも組合を認可せざること」
※その他 財政不安の指摘もあり、施行時はいわゆる「単一健康保険組合」のみが設立認可された。
昭和10年4月
複数事業主の共同設立による、いわゆる「総合健康保険組合」第1号が認可される
組合名 「神戸仲仕健康保険組合」(現 兵庫県運輸業健康保険組合)
神戸港湾荷役が輸出入外貨獲得の関西における拠点貿易港としての役割を担う中で、地元有力者であり設立母体でもある陸仲仕、沖仲仕同業組合が設立に向け政治力を発揮したとされている。その後、水産連合、農協、食糧関係、東京港運、神奈川運輸業をはじめとして戦前・戦後の統制経済の流れをくむ業界で総合型の健保組合の設立が相次いだ。
昭和13年4月
国民健康保険法 制定
昭和恐慌による農村の疲弊が著しく、医療も貧困の極みにある中、戦時体制強化のため農村、農民の救済と国民の健康と体力の向上を図ることが目的とされた。保険者は市町村を単位とする国民健康保険組合(任意設立)とされた。
昭和14年4月
職員健康保険法制定(都市俸給生活者の健康保持と体位の向上を図る)
船員保険法制定 (日中戦争勃発による国防上の観点で、海運業の発展と海運労働者の確保を図る)
昭和17年2月
職員健康保険法を健康保険法に統合
国民健康保険法改正(国民健康保険組合の強制設立)
・銃後の食糧増産体制の確立のための農山魚村民の保護育成
・戦時体制強化のための国民皆保険計画の策定
昭和18年4月
組合運営及び研究会としての地域連合体であった健保連が全国組織の公法人として設立認可される。ただし、会員の殆どは単一組合であり、事業計画、運営とも単一組合中心となっていた。
戦後の混乱と生活困窮化下での復興と社会保障制度の再編
昭和22年4月
労働基準法・労働者災害補償保険法制定により業務上の保険事故を除外
昭和23年
国民健康保険の市町村公営化(市町村事業)
高度経済成長を支え民生の向上を図るための社会保障の整備
昭和27年7月
社会保障思想の普及発達につれて中小企業事業主間の健保組合設立に向けた自発的な運動が高まる中で、東京織物問屋(東京織物)健保組合が、業界組合を設立母体とする中小企業体として戦後初めて設立認可された。これを機に同業の中小企業を母体とする総合型の組合設立が相次いだ。
健保連傘下に総合型の組合が増加するにつれ、総合組合の実情に即した対応策が十分でなかったこと等から、総合組合側から健保連に対して意見・提言する機運が醸成されるに至った。
昭和30年8月
健保連主催により、総合組合の運営上の諸課題と要望事項を議題として「総合健保組合懇談会」が開催される。さらに総合組合の横の連絡機関として「協議会」を結成することについて打ち合わせが行われた。
昭和30年11月
総合組合の調査研究、相互の連絡と諸課題解決のための組織として「全国総合健保組合連絡協議会」が結成される。神田如水会館にて行われた結成大会に、全国 から63組合、87名が参加した。
昭和33年5月
全国保険課所長事務打合会議が開催され小沢辰男厚生省保険局健保課長から下記の主旨で説示がされた。
「政府管掌健康保険が、限定された定員と機構の中におかれている中で、 国民皆保険制度の円滑な実施を図るため、中小企業同業者によって設立される総合組合を養成し、その普及発展を促進していく。」
昭和33年7月
「全国総合健保組合連絡協議会」が「全国総合健康保険組合協議会」に改組された。
会長組合 全国印刷工業健康保険組合
昭和33年9月
総合組合の普及発展に資するため、健保連の「総合健保組合懇談会」が健保連会長の諮問機関としての「総合組合対策委員会」として名称変更・改組された。
※昭和41年10月「総合組合調査会」に名称変更され今日に至っている。年一回開催 調査会委員は全総協が推薦
昭和34年1月
新国民健康保険法施行(段階実施) 給付の充実と医療保険未加入者の全員適用へ
昭和36年4月
全市町村による国民健康保険の完全適用 ――― 国民皆保険の達成
※参考図書 日本医療保険制度史(吉原健二 和田 勝 著) 健康保険組合発達史(鈴木三郎 著)